下条原区・下条原地区社会福祉協議会

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下条原の歴史

下条原区の歴史

歴史と文化の街 下条原区 

下条原新田の庄屋足立彦吉翁の墓地が市街地となった八幡町に残っています。

その南端の桐の木の下に立派な墓石があり、足立彦吉さんの戒名と略歴が刻まれています。

美濃国各務村(現岐阜県各務原市)の足立源太郎が、寛文元年(1661)下条原へ移住して原野50町歩(約50ha)あまりを開墾。

柏西公民館の神社歴にも類似した縁起が書いてあります。

源太郎の孫が彦吉で、天保4年(1833)惣庄屋に命じられ、そのはたらきが認められて苗字帯刀を許される。

困った人の救済や各地のもめごとなど、約400件を調停。彦吉さんは、文武に励み、みんなのために尽くす志が厚かった人で、人々から慕われた優れた人物といえます。

下条原新田は、現在の柏井町、八光町、八幡町の大部分と旭町、松新町、杁ヶ島(いりがしま)町、鳥居松町の一部を含めた広い範囲です。
この北半分を原と呼び、足立氏が移住開墾したところです。

江戸時代末の新田について、「家はところどころに散らばっている。

田は土地は良いけれども用水の末なので、水が不足して干ばつになることがたびたびある」と書かれています

〈春日井市郷土誌より抜粋〉


春日井の歴史と文化財

春日井市は、尾張の北東部、庄内川をはさんで名古屋市の北側に接しています。
市域を概観すると、北部から東部にかけては弥勒山・道樹山を中心とした400メートル前後の山地が連なり、多治見盆地との分水嶺となっています。その西側には標高200メートル以下の丘陵地域が広がっており、この丘陵面は内津川などの河川によって浸食され、谷地形を形成しています。市域の大部分には段丘地形が発達しており、市域全体が東高西低の地形となっています。
春日井の歴史は古く、旧石器時代から近世まで200箇所を超える遺跡の所在が確認されています。なかでも味美二子山古墳は90メートルを超える大きな古墳で国史跡に指定されています。
現在も、市内には重要文化財の多宝塔など数多くの文化財を有する密蔵院(熊野町)や日本武尊(やまとたけるのみこと)の伝説が残る内々(うつつ)神社(内津町)など、春日井の歴史を物語る文化財が数多く残されています。
文化財課では、貴重な文化財を現代に生かし、後世に伝えるため、埋蔵文化財、民俗・歴史資料等の調査、収集、保存を行っています。
また、こうした文化財を広く市民の皆さんに知っていただくため、「ハニワまつり」や「内津文化財祭」、文化財展(考古・民俗企画展)などを開催するとともに、「郷土誌かすがい」等の冊子の発行を行っています。<春日井市役所HPより抜粋>

春日井市の文化財↓


小野道風公 誕生伝説地

春日井市には、古くから小野道風の誕生伝説があります。南北朝時代に記されたと思われる書の奥義書『麒麟抄』を最古とし、『塩尻』(天野信景著)など、いくつかの資料にみられます。文化12年に尾張藩の学者、秦鼎の撰文によって建てられた小野朝臣遺跡碑によると、18世紀末には、この土地で道風生誕が信じられ、顕彰活動がおこなわれていたことが知られます。
 春日井市では、書聖小野道風の偉業をたたえ、末永く後世に伝えたいと、昭和56年11月1日、道風誕生の地と伝えられ、小野朝臣遺跡碑の建つ松河戸町に春日井市道風記念館を開館しました。全国的にも数少ない書専門の美術館として、また書道史の研究施設として、書道文化の一層の向上発展に貢献することを目的とした事業を展開しています。

小野道風(894年から966年)は、平安時代中期を代表する能書(書の上手な人)です。
小野道風の家系、小野氏は遣隋使で有名な小野妹子を祖先として、岑守・篁・美材等の学者や能書を輩出した名族でした。
幼いころから字が上手だった道風は、書をもって宮廷に仕え、数々の輝かしい業績を残しました。
道風の日本書道史上における功績を一口で言えば、それまでの中国の書の模倣から脱して、日本の風土や日本人の感性にあった書を創始したことです。その優美な書は和様の書と呼ばれ、道風とともに三跡と称される藤原佐理に受け継がれ、藤原行成によって大成され、その後の日本書道に大きな影響を与え続けました。 道風記念館↓


埴輪(ハニワ

今から約1500年前、東山町の下原古窯跡群 (埴輪を焼いた窯のあと)で大きな埴輪がたくさん作られていました。
そこで作られた埴輪は、国指定史跡味美二子山古墳などに運ばれて、古墳のまわりに並べられました。
二つの遺跡の間には、生地川・八田川が流れ、埴輪はこの河川の水運を利用して運ばれたと考えられます。
現在、川沿いには「ふれあい緑道」が整備されており、この緑道に市民のみなさんが制作した「ハニワ」を並べ古代のロマンを再現する試

みが「ハニワまつり」です。平成3年度から始まり、毎年秋になると野焼きの炎が人々を魅了します。
(古墳から実際に出土したもの=「埴輪」、復元制作したもの=「ハニワ」と表記しています
。)           春日井市役所郷土史HP↓

名古屋市~中山道大井宿)名古屋市春日井市多治見市土岐市瑞浪市恵那市

勝川周辺

鎌倉時代、この勝川あたり一帯は「山田庄」といわれ、小幡に領地をもつ豪族である山田氏が支配していた。
何代目かの当主にあたる山田重忠は、承久三年(1221)に起きた「承久の乱」で後鳥羽上皇に味方し官軍の大将として奮闘、朝敵の北条義時の大軍と京都で戦い敗れ弟とともに自害した。信心篤く、母のために無住国師を招き長母寺を建立した。また、死を免れた山田重忠の弟山田左衛門明長は後年、子である無盡道證禅師(無住国師の高弟)に長母寺の弟寺として地蔵寺を開山させた。地蔵寺は大正元年(1912)に春日井市大和通1丁目に移転され地蔵池懐古碑が残るのみである。
地蔵ケ池公園北にある勝川天神社は、無盡禅師が正和2年(1313)に創建したと伝えられる学問の神、菅原道真公がまつられている。
地蔵川を渡り500mほど行った国道19号の左手に長谷川邸がある。
文化年間(1804-1817)このあたりには、茶屋を始め十数件の旅籠が軒を連ね賑わっていた。長谷川邸は屋号を住吉屋と称して旅籠の中でも規模の大きなものであった。文政期における宿屋営業の記録が残っている。
長谷川邸の東北にある太清寺はその昔、醍醐山龍源寺と呼ばれた。小牧長久手の戦いで小牧山を出発した徳川家康は、龍源寺内の東方の阿弥陀堂に休憩後、戦支度を終えたのち庄屋の長谷川甚助を呼び、庄内川について聞いたところ「徒歩にて渡れる徒渉川、かち川にございます」と応えたという。家康は戦を前にして勝つ川とは縁起がよいと喜んだと言われている。
長谷川邸の北に札の辻道標跡があり、そこから下街道は右に折れ進む。下街道の北側に国道19号を見下ろすように愛宕神社古墳がある。神社の前を通りJR東海勝川駅方面に進む。街道の東側には勝川遺跡、町田遺跡などが 点在し古代からの繁栄を偲ばせる。
街道から2kmほど東側の庄内川の近くに小野道風の生誕誕生伝説地のひとつ松河戸町があり、三跡の一人、小野道風の偉業をたたえた全国でも数少ない書専門の道風記念館がある。隣接する巨岳山観音寺は曹洞宗の寺院で、境内には小野道風の像が立っている。

春日井市役所周辺

下街道と平行している国道19号の西側、春日井市立中央公民館の敷地内に尾張藩御浜御殿の門が移転されている。御浜御殿は、寛永元(1624)尾張藩初代藩主徳川義直が造営した尾張藩の迎賓館、東西に置かれていた。明治時代になって建物は壊された。
隣接したところに移転された「四つ建て」民家は、江戸~明治初頭の自作農の標準的な母屋を中央公民館に移築したものだ。尾張地方の形式を今に伝えている。
下街道に戻り東に進むと左手に油茂商店の店舗が見える。江戸時代からの油屋で、塗屋造りの重厚な店構え。菜種から油を絞り、油壺を並べて売っていた。
秋葉山常夜灯を左手に見て、進むと二階建ての塗屋造りの風格ある店構えの蔦屋。江戸時代から酢の醸造や製油などを行っており、大正頃からは、酒・米・麦・肥料などの販売をしていた。 春日井市立郷土館は、江戸時代末期に酒造家・飯田重蔵が建てた離れ座敷。その先にある観音堂には、馬頭観音、西国三十三観音や他に八体の石仏が祀られている。

密蔵院

JR東海春日井駅の西1600mほど東にある密蔵院は、鎌倉時代の嘉暦3年(1328)、慈妙上人によって開山された天台宗の古刹。寺運盛んな時代には全国に700余りの末寺を有し、寺域には 塔頭三十六坊、3000人を超える修行学侶がいたと伝えられている。
境内には隆盛を偲ばせる国指定重要文化財多宝塔が残っている。また、国指定重要文化財である木造薬師如来立像をはじめ、指定文化財は29件にもおよぶ。

東名高速道路の高架下をくぐり大泉寺町に入ると右手に尾張藩士小野沢五郎兵衛が隠居所として建てた退休寺の山門が見える。
五郎兵衛は二代藩主光友公のおもり役を務めた。街道の左手にある諸人助けの井戸は、小野沢五郎兵衛が水の便が悪く難儀をする旅人や地元の人々のために深井戸を掘り開放したもの。 石枠には南無阿弥陀仏慶安五年二月施主小野沢五郎兵衛と刻まれている。
街道の東側には、オセンゲ古墳、オフジ古墳が点在する。
常夜灯を過ぎ、右手に中部大学キャンパスを望むところに尻冷し地蔵が祀られている。
昔傷ついた武士がこの清水で傷の手当てをし乾きを癒していた時ここで討たれた事を哀れみ地蔵が建てられた。地蔵下の湧き水によりいつも濡れている事から呼ばれるようになったという。

坂下町

尻冷し地蔵を過ぎたあたりで下街道は国道19号と合流、上野町を過ぎたあたりで右に曲がり坂下の町へ入ってゆく。
坂下村は一色村と和泉村が明治11(1878)年に合併して出来た。養蚕が奨励され昭和の初めまでは盛んに行われていたという。昭和33年(1958)に春日井市に編入された。
江戸時代、春日井市内には内津・坂下・勝川の三つの宿場があった。その一つ坂下宿は、旅籠や商い屋が両側に立ち並び、 下町中通り札辻の高札場、上町中通りの馬継ぎ場、下町南城の茶屋本陣といわれる伊勢屋、旅籠では下町三坂近くの藤屋、近江屋、上町の萬屋、米屋などがあった。
尾張初代藩主徳川義直公は文武に優れこの地で度々鷹狩りをされ館が作られた。掘っ建て小屋式の全く質素な建物であったが、坂下御殿と呼ばれた。 義直公没後、二代藩主光友公の時代に不要になり廃止されたが、村人の多くの労苦に感謝し街道に面した土地は免税地としたと伝えられる。
曹洞宗の萬寿寺は、明治十三年(1880)に明治天皇が京都へ御巡幸のとき内津から下街道を名古屋へ向かわれ、当寺において御昼食を召された。
内津川を渡った左手のにある御手洗(みたらし)は、日本武尊(やまとたける)が東征の帰途、内津から、西尾、明知を経て熱田の宮に進む途中、ここ神屋(かぎや)で休まれ、手を洗われたのがいわれである。かっては、清水が一年中枯れることなく湧き出ていたという。

明知町は、東征の帰り道、日本武尊が、内津、西尾に続いてこの村を通りかかったとき、ようやく夜が明けて辺りが知れるようになったことから、明知の名がつけられたと伝えられている。
小高い丘の上にある光明院の本尊は馬に乗った地蔵尊で、将軍地蔵よばれている。階段を上った入口に将軍地蔵尊碑が立っている。
明知町から西尾町(さいおちょう)へ進む。東征からの帰り道、日本武尊は、急死した建稲種命の霊を内津の地に祀った後、この地まで来たとき、建稲種命のことを思い、馬を返して振り返った。そのとき、馬の頭が東を向き、尻尾が西の方を向いたことから西尾の名がついたという。
市立西尾小学校の南にある安祥寺は大須万松寺の末寺。元は名古屋志賀村にあった本尊を、享保十九年(1734)西尾の観音堂に移したのが寺の起こり。明治時代の路傍の石仏が安祥寺に集められ境内には観音像、地蔵像、馬頭観音像など多くの石像が池に面した崖に集められている。

内津町

内津町は、明治の始め峠西の拠点として130余戸の人家と10軒の旅籠、13軒の問屋などあり大層賑わい多くの人馬が行き交う地を表す「津」の文字が用いられ「内津」と書き表されるようになった。
下街道の右手、丘の上にある見性寺は、安永年間(1772~1780)に、名古屋大須万松寺の十九世綱国玄提大和尚が、寺を再興した寺院。安永二年(1774)八月、尾張の俳人横井也有翁が寺を訪れて、鶉衣(内津草)を記した。境内には、也有の詩碑と句碑がある。
内津の商家鵜飼家は 江戸時代中頃より大正時代にかけ味噌・たまりの製造販売を手がけ尾張藩から苗字を許される程となり後に解熱剤「正生丸」腹痛薬「金勢丸」の製造販売も行い多いに繁栄した。元治元年(1864)年に建てられたこの住宅は奥に三棟の蔵を持ち春日井市都市景観形成建築物等に指定されている。
内々(うつつ)神社は、「延喜式神名帳」にも記載されている由緒ある神社。
日本武尊が東征の帰路、尾張にはいり篠城に到着して内津の坂をくだられる頃、副将軍建稲種命の従者久米八腹が、建稲種命が駿河の海に落ち水死されたと早馬をもって報告した。日本武尊はこれを聞き悲泣して、「うつつかな、うつつかな」といわれその霊をまつられたのが内々神社である。
実際に祭った場所は内々神社から山道を700mほど上ったところにある奥の院であったとされている。
内々神社に隣接する妙見寺は、室町時代初期に天台宗密蔵院開山慈妙上人によって開創された古刹。
内々神社を出て内津峠を上り、内津峠の道標を過ぎ春日井市から多治見市へ進む。

*春日井市教育委員会制作の案内板および、『郷土誌かすがい』ホームページを参考に記載しました。

下街道(名古屋市~中山道大井宿)

名古屋市春日井市多治見市土岐市瑞浪市恵那市

下条原区・下条原地区社会福祉協議会 春日井市八幡町93 八幡学習等供用施設
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